その010:青空@San Jose

到着した晩は、風雨の大荒れ。その後も雨や曇といった天気が冴えない日が続いていました。

そんな中、やっと見れた青空!!


放射線を恐れずに、青空の下に立てることが、とても、とても、とても気持ち良い…。

この空、この水、この大地…、この地球を子どもたちにも贈りたい…。

その009:震災募金@米国

現在、米国でも街のいたるところで日本の震災復興募金を募っているのを見かけます。

 

↑@銀行。


↑@スーパー。

日本では、復興・復旧活動の為に、多岐多面において人々が協力しているというニュースを耳にします。現地に出向いているボランティアの方々、野菜を送る農家の方々、被災者を受け入れる西日本の方々…。

米国では、日本の震災のニュースと共にリビアの問題も大きく取り上げられています。

これを機に、(命を奪い合う国家間の争い、人々の競い合いがなくなり)日本、そして世界が1つになれると良いのにな…。

その008:米国のスーパー

「大量生産・大量消費」という言葉がふさわしい米国のスーパー。

品々の大きさや種類の多さ!!!


↑片側一列、すべてがシリアル。


↑形を整えてオーブンで焼くだけのお手軽お手作り(!?)チョコレートチップの生地。


↑冷凍ホットドック。


↑初めて見た“パイナップルココナッツ味”ハーゲンダッツ!


↑「パン粉」って英語になったの!?


↑どてぇ~ん・ポップコーン!!!だれが、いつ食べるのか…。


↑デザインがかわいいビール。


↑ここカリフォルニアはワインも有名!ってこの大きさ…。

ひさしぶりに「大きい」世界を見た気がする…。

この生活に慣れた人々が日本の様な震災に見舞われたらどうなるんだろうか。電気が通らず、食糧が手に入らず、飲料もない…。大パニックに陥るのではないだろうか。

そして、この生活に慣れてしまった人にとって、電気の使用を控えたり、食糧や飲料に規制をかけたり…といった生活は、非常に受け入れ難いことなんだろうな…。

環境負荷に考慮した生活・社会は、どう実現していくべきなのか、いけるのか…。

その007:San Jose郊外の学校

ある日、知人は、散歩のついでに…と我が子が通っていたという公立高校を案内してくれた。

その学校の面積の広さや設備の充実にびっくり!

ちなみに、ここでは、9年生から12年生までが高校に通い、全校生徒は約2500人ほどとのこと。(1クラスは30人ほど)


↑学校の前の通り。 土曜日の午後ということで車は少ない。


↑グラウンドには、バスケットゴールが10台!?さすがバスケの国、アメリカです…。


↑屋外プール。水は温水とのこと。(使用しないときは、熱を保つ為に、水上を青い板で覆っている)


↑陸上競技場。陸上用の400mトラック、アメフトやサッカーなどができる青い芝生。(近年、アメフトにはお金が掛かるということで、各地の学校・大学ではアメフトよりバスケといった他のスポーツを推進するところが出てきているらしい)


↑売店。なんだか馬券所みたい…。

その006:San Jose郊外の町並み

滞在している家は、San Jose中心部から車で20分程のところにあり、閑静な住宅街である。方角としては、西へ30分ほど行くと太平洋だが、北、東、南には遠くに小高い山が見える。

到着してから4日くらいすると、正午くらいに起きれるようになり、午後に散歩へ出掛けることが多くなった。

↑小高い丘にある公園からの眺め。とても気持ちが良い!!


↑公園の丘の上にある標識。なんと自転車の速度規制のためのもの(笑)!



その005:到着後、数日…

米国に到着後、睡眠時間や食欲は芳しくなかった。

到着した夜は深夜過ぎに寝て、起きたのは翌日の夕方。その日は深夜過ぎにベッドに入ったものの、寝付けず、明け方に寝て起きたのは午後3時。その翌日も同様だった。食欲もあまりわかずに、起きてからの夕食を食べるだけだった。

旅の疲れからか、時差ぼけか、もしくは恐怖や不安といったストレスからか…。

こっちに来てからも、ネットで日本のニュースを見ては、恐怖心を感じていた。日本の現状や、これからの自分自身に対して不安がいっぱいだった。また、その不安に対処するためにも、これから自分が何をすべきなのか道が見えずに焦りも感じていた。

正直、ここまで常に心が締め付けられる心境になったのは初めてだったと思う。

ただ、知人と話しているときは、いくらか心の緊張が和らいだ。

私の知人は、今日では60歳を過ぎているが、高校の頃、親の仕事の都合で1年間、日本に住んだことがある。当時、彼女の家に私の母が出入りしていたことがあり、知り合いとなったのである。

当時の様子を彼女はとても興味深く話してくれた。日本にきておどろいたこと、高校生活、家族、帰国後の様子、そして、数年前に日本に再訪したことなど…。

1970年代、東京・中野の住宅地で、洗濯物が竹竿に干されていたことにびっくりしたらしい。また、アイスクリームを歩きながら食べる事はタブーだったらしく、叱られたのを覚えていた。通っていたASIJはとても楽しかったと話していた。

また、彼女の家族は日本好きな人が多いらしく、お祖父さんは、第2次世界大戦前から日本に住み、エンジニアとして、今のトヨタや日立といった大企業に大きく貢献した方らしい。そのお祖母さんは、天皇家で英語を指導された経験もあるとか…。おじさんは何と外人として初めて東大を卒業し、日本文学専攻ということもあり、日米の通訳者として活躍されたとうかがった。

そして、お祖母さんが英語で書かれた日本についての本や贈り物としてもらったという1940年に出版された「日英ことわざ辞典」を見せてくださった。ちなみに、その辞典に掲載されていた100フレーズ程のことわざの内、私が見聞したがあるのは5フレーズくらいしかなかった。現代人の言語力の衰えの表れか、私の日本語力の乏しさの現れか…。

なんだか米国で母国・日本について改めて学んでいる気になった。

その004:到着!!!

10時間弱のフライト。

眠るにも、日本で会えなかった人々、やり残してきた事柄(仕事の引継ぎ、家の片付けなど)、さらには、これからのこと…、気掛りなことが頭に詰まっていて、眠りに入ろうとしても入れなかった。

そんな心境の私を乗せて飛行機はグングン進んだ。そして着いた地…、LA!!!

着いてからは、まずは放射線防止の衣装を着替えなければなかった。ということで、到着後、トイレへ直行!衣類や頭部を適当にはたいて…、雨具、防止、衣類を脱いで袋に入れてゴミ箱へ…、そして、リュックの奥底に眠らせていた衣類に着替え終了!!!


↑トイレのゴミ箱…。m(__)m

「ふ~」マスクなしの呼吸が、こんなに気持ち良いものかと…。

それから入国審査。そして税関。普段なら1時間弱で終えていたのに、なぜかその日は2時間を要してしまった。

まず、入国審査の列が長く、1時間以上かかった。ただ自分の順番がきたら、フレンドリーな審査官で2、3分程で終わった。

次の税関。ここがネックだった。初めに並んだ税関の列は行列で30分程を要し、いざ自分の順番がきたら審査官にひっかかってしまった。たぶん「3ヶ月間の滞在。手持ちの所持金は約300ドル。」というところが疑われてしまったらしい…。

そして、改めて税関の列に並ぶように言われ、待つこと20分。やっと自分の順番がきた。次はフレンドリーな審査官だったので、これまた2、3分で終わった。

しかし、すべてを終えたときには、予約済みの電車の発車時刻まで50分をきっていた。そこから1時間かけてバスと電車を乗り継いで電車の駅まで行く予定をあきらめ、タクシーへ。空港から、LAの街をいっきに走り抜け、街の郊外にある電車の駅へ…。駅に着いたのは発車時刻5分前。急いで切符売場で予約済み切符を手に入れ、ホームまで走った。何とか間に合い、席に着いた…。


「ふ~」米国で電車(Amtrak)に乗るのは久し振りで、快適だった。



西海岸をLAから北上していたので、東側には山、西側には海という眺望。ただし、この日はあいにくのどよ~んとした曇り空。


3時間かけて電車が終着駅に着き、そこからバスに乗ること6時間。知人が待つ、San Joseに着いたのは、夜9時過ぎ。外は、強い風と雨で大荒れていた。真っ暗なバス停でしばらく待ってみたが、一向に知人は現れず、仕方なく電話を掛けることに…、その時、「Ritsuko?」と一声。

知人、Kendraであった。

実に20年弱ぶりの再会!!!

…と盛り上がりたいところだが、その晩は、シャワーを浴びて、すぐに床に就いた。

その003:出発!!

初めて国内線で成田に着いた。

何度も来たことがある成田であったが、一体、自分がどのターミナルにいるのか、どこへ行くべきなのか分からなかった。

ひとまず放射線防止の衣装に着替えることに…。

「放射線防止の衣装」!?

叔母さんが提供してくださった不要な洋服の上に、透明の雨具で肌の露出する箇所を最小限にした。髪の毛は1つに束ね、前髪は分け、防止を被った。マスクは水で湿らせたマスクの上に、2重のマスクをした。そして、唯一持っていたリュックにも透明のビニール袋をかけた。

きっと10日前にこの格好で空港にいたら、間違いなく警官に呼び止められただろう。

しかし、その日は違った。

私のことを気に留めて見る人もいたが、「変質者扱い」ではなかった。「おぉ、すごい。あそこまで守っているとは。」つまり、多くの人がその理由を知っていた。現に、私の様な格好をしている人は、他にも数名いた。(正直、もっと多くいると思っていたが…)

さて、よく来たことがあった成田空港であったが、初めて空港で寝ている人を見た。1人、2人ではなく、廊下の壁際に沿って何人も寝ていた。容姿からして大半が中国人だったと思う。自国への飛行機の空きを待っているらしい。

出発まで5時間程あった。しかし、母との電話や、職場への電話と手紙を書いていたら、あっという間に過ぎてしまった。

「これで良いのかなぁ」と、電話口で母には、空港に来てまでまだ迷っている本音をこぼした。そんな私に対して、母や胸に響く言葉で背中を押してくれた。「人生には切らないといけない選択肢がある」と。「進んだ先で修正を効かせれば良い」と。また、「恩は、必ずしも尽くして下さった相手に対して直接的ではなく、社会に対して行うことで間接的にも返せる」とも。

職場への手紙は、昨夜のうちに書いておこうと思っていたが、何から書くべきか…、何を書くべきか…、迷いに迷っていた。しかし、出発時刻3時間前。空港の郵便局前で立ちながら、持ち合わせていた紙とペンでつづった。事前に用意していた便箋類は忘れずに持ってきたが、筆ペンを忘れてしまい、失礼にあたるが仕方なくボールペンで書くことにした。

今回の一騒動で誰よりも迷惑を掛けているのは、職場の方々、そして子どもたちであった。そんな中、毎回の電話に優しい声で受け答えて下さった職場の方々…。そんな人々の心の温かさに涙がとまらなかった。

それにしても、「まさか、辞表届たるものを空港で書くとは…」、私の人生は実に波乱万丈に満ちている、と改めて感じた。

国際線ながら、出発時刻1時間半前にして搭乗手続きの窓口へ走った。そして、出国手続きへ…。



↑空港に飾られていたポスター。EMERSON航空では、機内食の廃棄物を使って電力を発電しているらしい。すばらしい!!!この世界、未来に対して希望を失いかけていた私だったが、少し希望がわいてきた。

飛行機に乗る直前になって友人からのメール、「今、みんなで京都にいるんだけど来れる?」…。…。…。「今朝まで大阪にいたんだけど~(>_<)」。このメールを昨日もらっていたら、もしかしたら私は全く違う選択肢を選んでいたのかもしれない…。

ただ、もうここまで来たら、私は前を向いていた。

まずは、米国へ…

その002:出発!

「ほんとうに今日、発つんだ…」

午前7時。ボーっとする頭。

あまり寝ていないこと、出発当日という実感が薄いこと、色々と頭は困惑してた。頭の半分以上に靄がかかっていた。

そんな風にして困惑する私の横で、叔母さんは着々と準備を手伝ってくださった。2、3着しか洋服を持っていなかった私に、「もう着ないから」と洋服を提供してくださったり、「何かあった時に食べると良いわ!」と言って梅干を包んでくださったり、さらには、手作りのオニギリまで作ってくださった。(T_T)

子育てに疲れているはずの姉も、早朝から起きて、何かと気に掛けてくれた。昨日は、「こんな突然、出発を決めて、先のことは考えているの?周りの迷惑は考えているの?」と、私自身が気に掛けているけれども答えを見出していないことについて鋭くつつかれた。「やっぱり姉は、この出発には反感を抱いているのかな…。」と思った。しかし、いざ出発の朝を迎えると、とても協力的になってくれた。

姉はいつもそんな感じだ。いや、姉だけでなく、私の周りの人々はみんなそうなのかもしれない。私の自由奔放さに対して周りの人々は、「ちょっと…」と物を申したくなることが多いだろう。しかし、最終的には、私を受け入れ、力になってくださる。そんな人々の心の広さや温かさには、ただ、ただ、感謝である。m(__)m

その日の朝、ドアで「いってきます」と告げたときの姉の顔は、どことなく心配しているかのようにも見えたし、寂しそうにも見えた…。

そして、叔父さんが運転する車で関西国際空港へ…。(叔父さんも日課にしている散歩を早めにきりあげて見送ってくださった。(T_T)



そして、まずは関西国際空港に到着。

関空には何度か来たことがあるが、その朝はこれまでになく賑わっている様子だった。「自国へ帰国。成田より関空。」という人たちが多いのだろう。

まずは、関空から成田という国内線だったので、空港について、搭乗手続きをして、すぐに飛行機に乗った。あっという間の1時間の空の旅。

その間、数日前に「大阪へ行く。早くて2、3日、長くて数週間したら1度戻ってくるから。」と告げて去った東京を通り過ぎていた。できることなら、もう一度会いたかった…。いや、「一度」というよりも、一緒に居たかった…。子どもたち、同僚、友人、家族…。

その001:出発前日

出発前日。

といっても、出発前日の昼に各種チケットを手配したのだ!!!

お世話になっていた親戚に「明日、発ちます」と告げると、
「え?えええ???」という反応。
その日の夕食は、急遽、近くの親戚が集まって鍋をしてくれた。

ただ、(はたから見ると)何をやってもカワイイ1歳や2歳になる鳩子や甥っ子もいるので、あくまでも盛り上がるのは彼らの話題。私も、会話や食事よりも、一緒に遊ぶことに夢中になっていた。もとから“会の主役”は苦手なので…。


アンパンマンに夢中になる2人…。かわいい(>u<)

ここ最近、つくづく感じること…、
「やっぱり私が求めているのは家族なのかなぁ…。こうして、家族や好きな人と過ごす何気ない1コマ1コマをとても愛おしい。」…と。

って、私自身が弱くなっているだけなのかな…。1人で立つのがつらくて甘えているだけなのかな…。

ただ、家族に対して特別な思いを抱いているのは確かな気がする。

というのも、先日、甥っ子と一緒に本を読んでいたとき(若干2歳にしてひらがなやアルファベットが読める!…ようになってきている。)、3匹のクマの挿絵に指を差しながら「ぼく、ママ、パパ」と言っているのを聞いたとき、無性に涙が止まらなくなってしまった。事情があってパパと会えない日々が続いているのに、彼の中にしっかりパパという存在はいるのだ。

「きっと口には出さないけど、パパが(ママもだが)好きなんだろうな。会いたいんだろうな。」と思ったら、涙があふれ出てきてしまったのだ。
…って、解釈のし過ぎかな!?

ま、そんな感じで、出発前夜はごく普通に過ぎ去っていった。ただ、直前の準備に追われていて床に就いたのは午前4時。ただ、起きれないことへの不安からか、これから先への不安からか、寝たようで、寝ていないような感じであった。

まさか、こんな突然に出発の日が来るとは…